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zoom RSS NHKのドラマ「花子とアン」の背景(2)

<<   作成日時 : 2014/08/04 00:15   >>

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ドラマでは仲間由紀絵が扮する、加納に嫁いだ葉山連子、
のモデルである白蓮、の史実を纏める:
      →
   柳原白蓮(伊藤Y子「あきこ」)
        :(明治18年10月15日 ― 昭和42年2月22日)


• 伊藤Y子は明治18年10月15日、東京で誕生。 大正三美人の1人。
• 父は柳原前光伯爵。 生母は前光の妾の1人で、柳橋の芸妓となっていた没落士族の娘、奥津りょう。  義母:前光の正妻・初子 。
• Y子は大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。
• 生後7日目に柳原家に引き取られ、初子の次女として入籍される。 前光の本邸には側室の「梅」(元は柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅はY子の引き取りを願っていたが、 正妻の初子がそれを阻止すべくY子を自分の手元に引き取ったという。
• 初子を母と定められて間もなく、当時の華族の慣習で品川の種物問屋を営む家に里子に出され、乳母の「増山くにと里親家族の愛情の元、下町の自然豊かな環境で育てられる。
• 明治25年(7歳)、柳原家に戻り、小学校入学。 初子に華族の娘として躾けられる。

• 明治27年、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となる。 
• 北小路家は夫婦間の子が全て早世したため、 Y子を、隨光が女中に生ませた資武の妻にする条件での養子縁組であった。
• Y子は北小路家で、養父の隨光に和歌の手ほどきを受ける。
• 13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学。  北小路家が経済的に苦しいので養父母は女学校入学を渋ったが、Y子の強い願いにより、実現した。
• (明治33)華族女学校を中退、北小路資武と結婚。 翌年に男児(功光)を出産(15歳)
• 資武は7歳年上で知的障害があり、Y子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあった。
• 結婚相手である事など知らなかったY子は資武に恐怖して嫌いぬき、結婚を急がせる養父母に泣いて抗議するが、 ある日資武に、「お前は妾の子だ」、と罵倒され、自分の出生を知らされる。  初子を実母と思い込んでいたY子にとっては、帰る場所を失った出来事だった。 
• 明治34年、功光誕生の半年後、養母・久子の提案で、北小路家縁の京都へ、一家で引っ越す。
• まったく友人の居ない京都での生活は、子の養育は久子に取り上げられ、外で子供のように遊びながら家で女中に手を付ける夫とは夫婦の愛情も無く、Y子は孤独を深めるばかりだった。
• (明治38年)北小路資武と離婚(20歳)、Y子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、子供は残す条件で離婚が成立し、実家に戻った。

• 父・前光が死去し、異母兄の義光が柳原家の家督を継ぐ。 
• 東京に戻ったY子は「出戻り」として柳原家本邸へ入れてもらえず、母・初子の隠居所で監督下に置かれ、門外に出る事のない幽閉同然の生活となる。
• ほとんど誰とも口をきかない生活の中、姉・信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。
• その間、再びY子の意向と関わりなく縁談が進められ、Y子は家を飛び出した。 家出したY子を信子が庇い、兄・義光夫妻の元に預けられる。
• 明治41年、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入学し、寄宿舎生活をおくる。 この頃、信子の紹介で佐佐木信綱主催の短歌の竹柏会に入門する。 Y子には、再び学ぶことができる幸せな学園生活であった。
• 女学校ではずっと年下の生徒達とも打ち解け、中でも後に翻訳者となる村岡花子とは親交を深めている。  また、慈善事業に関心を持つなど見聞を広めた。
• (明治43)3月、東洋英和女学校卒業。

• (明治44)2月、伊藤伝右衛門(ドラマでは加納)、と再婚。(25歳)
• (大正4)白蓮の雅号で第一歌集『踏絵』上梓
• (大正9)1月、編集者として別府を訪れた宮崎龍介と出会う。
• (大正10)10月、白蓮事件。 伊藤伝右衛門と離婚。(36歳)
• (大正11)5月、男児(香織、ドラマでは[純平」)出産。
• (大正12年)9月、関東大震災。 香織と共に宮崎家に入る。
• 11月、華族除籍。 以降、柳原白蓮、柳原Y子の筆名で活動。
• (大正14)9月、長女・蕗苳誕生。
• (昭和6)宮崎滔天遺族の国賓として、龍介と中国訪問。
• 1945年(昭和20)8月、香織、鹿児島県で戦死。(59歳)
• (昭和21)1月、長女・蕗苳結婚。 悲母の会結成、平和運動に参加。
• (昭和31)5月、龍介と中国訪問。 毛沢東主席、周恩来総理と対面。
• 1967年(昭和42)2月22日死去。(81歳)葬儀委員長は片山哲。

異母兄:柳原義光、
   異母姉:信子
(入江為守夫人、入江為常・相政兄弟の母)
養父:北小路隨光、 養母:久子(白鳥神社の娘)
最初の夫:北小路資武、 子:北小路功光
2番目の夫:伊藤伝右衛門 (ドラマでは加納
3番目の夫:宮崎龍介、 子:香織、蕗苳(華道家)
乳母:増山くに、乳兄弟:小池彦太郎(くにの娘婿)…くに没後、北小路家から出戻った後の幽閉時代に家出したY子を匿った。 伊藤家出奔の際にもいつ来るかと痩せるほどに気を揉んでいた。 Y子の晩年まで交流は続き、最期も看取っている。
   ★ ★ ★ ★ ★ ★
白蓮事件とは、大正10年10月20日、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻、伊藤Y子(柳原白蓮)が、滞在先の東京で出奔し、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちした事件。

伝右衛門は福岡へ戻る途中で立ち寄った京都の宿で、22日朝刊の報道を知って驚愕。 たまたま京都に来ていたY子の兄・柳原義光と連絡を取り合い、その日のうちに落ち合っている。
伝右衛門は、同日の夕刊で妻白蓮から夫への絶縁状が公開された事で、数社のインタビューに応じる。 新聞紙上で、夫・伝右衛門からの反論文が掲載され報じられた。
その頃のY子は東京府下中野の弁護士・山本安夫の元に、伊藤家から伴った女中と共に匿われていた。 山本は龍介の父・宮崎滔天の友人であり、子供の頃から親しい龍介に相談を受け、Y子の身柄を預かっていた。
10月24日に福岡に戻った伝右衛門は親族会議を開き、友人の炭鉱主らも同席する。 伝右衛門らは、宮崎側に関与する事は避け、問題は柳原家と伊藤家の両家の間のみに絞られた。
11月1日夜、東京丸の内の日本工業倶楽部の一室に伊藤・柳原両家関係者が招集される。 伊藤家の意向を受けた伝右衛門の妹婿・伊藤鉄五郎と伊藤家支配人・赤間嘉之吉の他、介添人として麻生太吉が上京、柳原家は当主の義光とY子の姉婿・入江為守らが出席し、奥平昌恭伯爵が仲介役。
この席でY子を伊藤家から正式に離縁する事が決められ、伊藤家に残したY子所有の調度品や衣類・宝石類(約5万円)を柳原家に託し、Y子名義の土地・家屋・株券(約2百万円)などは名義を変更して伊藤家に返還する事などが決められた。
11月2日、仲介役の奥平伯爵が築地精養軒で新聞通信社にY子と伝右衛門の離縁を発表し、3日付の新聞に掲載される。 事件からわずか10日後、伊藤家側は極めて寛大な処置で迅速に身を引いた。 伝右衛門は一族に、「末代まで一言の弁明も無用」、と言い渡した。 以降、伊藤家では白蓮の話題はタブーとなり、伝右衛門はその後一切事件について語らなかった。
3日の新聞には、憔悴しきった義光が「何故Y子は死んで呉れぬか、尼寺へも行ってくれぬのか」と号泣する姿が、周囲の涙を誘ったとある。
この間、Y子は伊藤との離縁が発表された後の大正10年11月11日に山本の計らいで密かに宮崎家を訪れ、 病床にあった龍介の父・滔天や家族らと初めて対面した。 事件が起きるまで何も知らされていなかった滔天は、龍介に、「どうしようもなくなったら、2人で心中してもいい」、と励ましたという。  この3日後、近所に家を借り龍介とY子は束の間の同棲生活をおくる。
伝右衛門は生涯を通じての遊び人であったが、事件後新たに妻を迎える事はなく、(昭和22年)12月筑豊炭鉱での生涯を閉じた。

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戦争で長男・香織を失ったY子(白蓮)は平和運動家として全国を行脚し、(昭和28年)夏、講演会で九州へ向かう事になる。

九州に行くことは、足が重いと案じるY子に、京都での隠棲生活時代から親交の続いた宇城信五郎は、励まして各地の講演会に同行し、また、「あなたが伊藤さんに可愛がられ、人のいうように甘やかされていたのなら、決して今日のあなたはないのです。 伊藤さんこそ善知識であったと感謝しなければなりませんよ」、と説いたという。
伝右衛門死去から6年後の(昭和28年)10月、出奔事件以来32年ぶりに九州・福岡の地を訪れたY子は、九州の地を捨てて30余年過ぎた年月を振り返り、「『あのときのことは許してね』と謝りたい気持ち」と、ここは自分の人生道場であり、泣きも怒りも恨みも、すべては今日の自分のための土台となっている、と語っている。
翌(昭和29年)、戦後に実業家の手に渡った別府の旧伊藤家別邸が別府銅御殿ホテルとして改装され、白蓮歌碑が建立されて除幕式に龍介・Y子夫妻が招かれた。
夫妻は同年5月に宮崎兄弟追悼会のため熊本を訪れ、Y子は伊藤家出奔の際にすべてを知りながら記事を書かなかった熊本日日新聞論説主幹で事件当時は福岡日日新聞の駆け出し記者であった伊東盛一と再会している。この席には永畑道子が記者として同席している。

昭和42年2月、Y子死去。
龍介は『文藝春秋』の同年6月号に
  回顧録「柳原白蓮との半世紀」を寄せた。
 昭和46年1月、龍介死去。

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