人間の評価: (7)秋の叙勲・栗林忠道①
昨年、▲「人間の評価に付いて(6)秋の叙勲」、を書いて、もう1年経った。
間も無くまた、秋の叙勲の時期である。
今回は、栗林忠道大将の記事を書きたい。
日本では必ずしもよく知られては居ないが、
太平洋戦争中から米国では最も恐れられ、
よく知られた、硫黄島日本軍の総指揮官である。
最近になって知られる契機になった、
梯久美子著の“散るぞ悲しき”、
に書かれていない栗林の経歴、 を紹介する。
栗林は、長野市の近郊の松代の出身である。
日本が他のアジアの国々の様に、欧米列強の
植民地にならずに済んだのは、松代の真田幸貫
と幕府老中水野忠邦との尽力の御蔭であり、
その経緯は(▲「「人間の評価」に就いて(1)真田幸貫」 )、
に紹介した。
栗林の生まれ育った松代は、その真田十万石の
城下町であった。
私の叔母Bは氷鉋(ひがの)という珍しい名前
の地籍に家がある。 此処はTVドラマ「風林火山」
に出てくる、川中島の古戦場のごく近くである。
氷鉋は、栗林夫人が生まれ育った村であり、
栗林夫人の故郷である氷鉋に住む叔母Bが、間も無く
100歳を迎えることが、今回の「人間の評価に付いて」
記事の主題に、栗林大将を取り上げる気持になった、
一つの理由である。
なお、Bの姉である叔母Aは、長野市に近い須坂の街
に住んでいる。 須坂、の藩主であった堀直虎
の業績、(この人が居なければ幕末に日本は
内戦が始まったかもしれなかったこと)、を、以前に、
▲「「人間の評価」に就いて(5):堀直虎」 、に書いた。
私が旧制長野中学の生徒であった頃は、毎年一度、
全校1000人の生徒が一斉に、42kmのフルマラソン距離
を走るのが慣わしであった。
そのコースは、学校を出て、川中島(氷鉋)、松代、を通り、
須坂を抜けて学校に戻る、のである。
つまり、それらの地籍は、その程度の距離である、
ということだ。 ついでに自慢話を一つ入れると、
毎年私は第一関門である松代を通過する時には
10番以内で抜けていた。 但し、私は一ケタ台の順位
で帰着した事は遂に無かった。
戦争中に米国民に最も恐れられた
「硫黄島の日本軍」、を指導しながら、
軍の最高指導部に講和を進言
していた栗林大将、は、
私の母校である長野中学の、第11回(明治44年3月)
の卒業生である。
長野中学の卒業者名簿を見ると、栗林の同級生に氷鉋の
人の名前があるが、それが夫妻の結び付きに
関わったのかどうかは分らない。
栗林自身の生まれ育った松代も氷鉋から、それ程遠くは
なくて、この学年の75名の生徒の中に松代の者が
4人も居るし、他に川中島村の者もいるのだから。
なお栗林の同級生に、当然、須坂の者も居るが、
この辺の具合は、私の時代も余り変わっていない。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
栗林忠道大将の業績は、最近になって
国内でも良く知られるようになってきた。
残念ながら、周知の原動力になったのは、
米国の映画、“硫黄島からの手紙”が
話題になったこと、
そして梯久美子の“散るぞ悲しき”が
大宅荘一ノンフィクション賞を受賞して
広く読まれたことである。
終戦後、半世紀の間、硫黄島関係者など、知る人ぞ知る、
といった状態ではあっても、日本人全体としては
決して良く知られては居なかった。
硫黄島の戦闘が戦争の終盤に持つた意味合い
(梯久美子氏の本に詳しい)、を考えると、
これは驚くべき事だと思う。
事実、「二人のピアニスト」君の話を聴いて、私は吃驚した。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「ピアニスト」君は21世紀の最初の「初日の出」を、
クルーズ客船で洋上で迎えたのだが、その前日、
サイパンの沖合いで、20世紀最後の日没を洋上で拝み、
更に、その前日、12月30日には、硫黄島の脇
を船が通過した。
こうして彼は20世紀最後の時間に、太平洋戦争の
激戦の地、を辿ったのに感動した。
処で、数百名の乗船客を積んだクルーズ船が
硫黄島の脇を通過する時に、舷側で
島を見続け、見守っていたのは二人だけだった、という。
「ピアニスト」君のほかにもう一人の老人が居て、
互いに少し離れた場所で、擂鉢山の形が
見えなくなるまで、其の侭の位置に立ち尽くした。
島が見えなくなって、舷側から船内に入る時に、
互いに顔を見合わせて、
「私共、二人だけでしたね」、と言葉を交わした。
そのクルーズの、その後の時間でも、二人は話しを
することはなかったそうだ。
最近になって、映画「硫黄島からの手紙」が大層評判
を呼び、若い人達も此処での激戦のことを
知るようになった。
栗林中将のことを、戦後派も多くの人が知った。
現在の時点で硫黄島の脇を船が通過するならば、
もっと遥かに多くの人達が舷側に集まって、
島を見守ったと思う。
しかし、老人の乗船客が多く居た筈のクルーズ船で、
20世紀最後の日がその様な状況だったとは、
私には信じられない思いである。
歴史は語り継がれ難いだけでなく、同時代の人間
にも残らないのだと、知った。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
戦争に突き進む時代に、米国の実力を
知るが故に、戦争に反対し、結局は
軍の主流に疎まれ、東条に嫌われて、
皆が逃げた硫黄島の総指揮官を
引き受けた栗林。
太平洋戦争中、各地の戦闘で、米国軍側
の死傷者数が、日本軍よりも多かった
のは硫黄島戦だけであって、
そのため、戦争中に米国民に最も恐れ
られた硫黄島の日本軍を指導しながら、
日本内地への空爆を心配し、軍の
最高指導部に講和を進言していた栗林。
その事跡を知るだけでなく、何が、あのような人格を
育て上げたのか、を我々は学び取らねばならない。
なお、硫黄島に送られて戦死した著名な軍人には、他にも、
昭和7年のロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で
金メダルを獲得した西竹一中佐・男爵がいる。
彼も親米派と目されたための硫黄島送りであり、
戦場ではこれを知った米軍が、米国社交界の花形だった
彼を救うべく連絡を取ったが、彼はそれを拒み戦死した。
日本は、最高級の人材を、玉砕が確実であった
硫黄島に送り込む一方で、
合理的な思考の出来ない上層部が権力を握り、無謀な
戦争を続けて、被害を拡大させたのであった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
硫黄島での戦闘で、日本軍は全長18kmに及ぶ地下壕を
拠点に36日間に亘る組織的抵抗を続け、
凡そ2万2000人が戦死し、生き残ったのは
僅かに1000人ほど。
米軍も7000人近くが戦死したが、 これは太平洋戦争
全体で戦死した海兵隊員の3分の1にあたる。
米軍戦死者の遺骨は殆ど収集されているが、
日本軍遺骨は8715柱しか収集されていない。
硫黄島の戦記は何冊か有る中で、上坂冬子氏の著書、
「硫黄島いまだ玉砕せず」(1993年、文芸春秋)、
は私が最も感動した著書である。 この著者の
取材の徹底さが、読んでいて納得させられる。
歴史の歯車の巡り合わせで、硫黄島に生涯を捧げた
和智恒蔵が、硫黄島戦死者の慰霊や遺骨・遺品
の収集に如何に努力したかが、この本で分かるが、
それでもなお一万柱以上の遺骨が残されているのである。
(沖縄と硫黄島を含む在外戦死者約240万人のうち、
約114万人の遺骨がまだ戻っていない)
間も無くまた、秋の叙勲の時期である。
今回は、栗林忠道大将の記事を書きたい。
日本では必ずしもよく知られては居ないが、
太平洋戦争中から米国では最も恐れられ、
よく知られた、硫黄島日本軍の総指揮官である。
最近になって知られる契機になった、
梯久美子著の“散るぞ悲しき”、
に書かれていない栗林の経歴、 を紹介する。
栗林は、長野市の近郊の松代の出身である。
日本が他のアジアの国々の様に、欧米列強の
植民地にならずに済んだのは、松代の真田幸貫
と幕府老中水野忠邦との尽力の御蔭であり、
その経緯は(▲「「人間の評価」に就いて(1)真田幸貫」 )、
に紹介した。
栗林の生まれ育った松代は、その真田十万石の
城下町であった。
私の叔母Bは氷鉋(ひがの)という珍しい名前
の地籍に家がある。 此処はTVドラマ「風林火山」
に出てくる、川中島の古戦場のごく近くである。
氷鉋は、栗林夫人が生まれ育った村であり、
栗林夫人の故郷である氷鉋に住む叔母Bが、間も無く
100歳を迎えることが、今回の「人間の評価に付いて」
記事の主題に、栗林大将を取り上げる気持になった、
一つの理由である。
なお、Bの姉である叔母Aは、長野市に近い須坂の街
に住んでいる。 須坂、の藩主であった堀直虎
の業績、(この人が居なければ幕末に日本は
内戦が始まったかもしれなかったこと)、を、以前に、
▲「「人間の評価」に就いて(5):堀直虎」 、に書いた。
私が旧制長野中学の生徒であった頃は、毎年一度、
全校1000人の生徒が一斉に、42kmのフルマラソン距離
を走るのが慣わしであった。
そのコースは、学校を出て、川中島(氷鉋)、松代、を通り、
須坂を抜けて学校に戻る、のである。
つまり、それらの地籍は、その程度の距離である、
ということだ。 ついでに自慢話を一つ入れると、
毎年私は第一関門である松代を通過する時には
10番以内で抜けていた。 但し、私は一ケタ台の順位
で帰着した事は遂に無かった。
戦争中に米国民に最も恐れられた
「硫黄島の日本軍」、を指導しながら、
軍の最高指導部に講和を進言
していた栗林大将、は、
私の母校である長野中学の、第11回(明治44年3月)
の卒業生である。
長野中学の卒業者名簿を見ると、栗林の同級生に氷鉋の
人の名前があるが、それが夫妻の結び付きに
関わったのかどうかは分らない。
栗林自身の生まれ育った松代も氷鉋から、それ程遠くは
なくて、この学年の75名の生徒の中に松代の者が
4人も居るし、他に川中島村の者もいるのだから。
なお栗林の同級生に、当然、須坂の者も居るが、
この辺の具合は、私の時代も余り変わっていない。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
栗林忠道大将の業績は、最近になって
国内でも良く知られるようになってきた。
残念ながら、周知の原動力になったのは、
米国の映画、“硫黄島からの手紙”が
話題になったこと、
そして梯久美子の“散るぞ悲しき”が
大宅荘一ノンフィクション賞を受賞して
広く読まれたことである。
終戦後、半世紀の間、硫黄島関係者など、知る人ぞ知る、
といった状態ではあっても、日本人全体としては
決して良く知られては居なかった。
硫黄島の戦闘が戦争の終盤に持つた意味合い
(梯久美子氏の本に詳しい)、を考えると、
これは驚くべき事だと思う。
事実、「二人のピアニスト」君の話を聴いて、私は吃驚した。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「ピアニスト」君は21世紀の最初の「初日の出」を、
クルーズ客船で洋上で迎えたのだが、その前日、
サイパンの沖合いで、20世紀最後の日没を洋上で拝み、
更に、その前日、12月30日には、硫黄島の脇
を船が通過した。
こうして彼は20世紀最後の時間に、太平洋戦争の
激戦の地、を辿ったのに感動した。
処で、数百名の乗船客を積んだクルーズ船が
硫黄島の脇を通過する時に、舷側で
島を見続け、見守っていたのは二人だけだった、という。
「ピアニスト」君のほかにもう一人の老人が居て、
互いに少し離れた場所で、擂鉢山の形が
見えなくなるまで、其の侭の位置に立ち尽くした。
島が見えなくなって、舷側から船内に入る時に、
互いに顔を見合わせて、
「私共、二人だけでしたね」、と言葉を交わした。
そのクルーズの、その後の時間でも、二人は話しを
することはなかったそうだ。
最近になって、映画「硫黄島からの手紙」が大層評判
を呼び、若い人達も此処での激戦のことを
知るようになった。
栗林中将のことを、戦後派も多くの人が知った。
現在の時点で硫黄島の脇を船が通過するならば、
もっと遥かに多くの人達が舷側に集まって、
島を見守ったと思う。
しかし、老人の乗船客が多く居た筈のクルーズ船で、
20世紀最後の日がその様な状況だったとは、
私には信じられない思いである。
歴史は語り継がれ難いだけでなく、同時代の人間
にも残らないのだと、知った。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
戦争に突き進む時代に、米国の実力を
知るが故に、戦争に反対し、結局は
軍の主流に疎まれ、東条に嫌われて、
皆が逃げた硫黄島の総指揮官を
引き受けた栗林。
太平洋戦争中、各地の戦闘で、米国軍側
の死傷者数が、日本軍よりも多かった
のは硫黄島戦だけであって、
そのため、戦争中に米国民に最も恐れ
られた硫黄島の日本軍を指導しながら、
日本内地への空爆を心配し、軍の
最高指導部に講和を進言していた栗林。
その事跡を知るだけでなく、何が、あのような人格を
育て上げたのか、を我々は学び取らねばならない。
なお、硫黄島に送られて戦死した著名な軍人には、他にも、
昭和7年のロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で
金メダルを獲得した西竹一中佐・男爵がいる。
彼も親米派と目されたための硫黄島送りであり、
戦場ではこれを知った米軍が、米国社交界の花形だった
彼を救うべく連絡を取ったが、彼はそれを拒み戦死した。
日本は、最高級の人材を、玉砕が確実であった
硫黄島に送り込む一方で、
合理的な思考の出来ない上層部が権力を握り、無謀な
戦争を続けて、被害を拡大させたのであった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
硫黄島での戦闘で、日本軍は全長18kmに及ぶ地下壕を
拠点に36日間に亘る組織的抵抗を続け、
凡そ2万2000人が戦死し、生き残ったのは
僅かに1000人ほど。
米軍も7000人近くが戦死したが、 これは太平洋戦争
全体で戦死した海兵隊員の3分の1にあたる。
米軍戦死者の遺骨は殆ど収集されているが、
日本軍遺骨は8715柱しか収集されていない。
硫黄島の戦記は何冊か有る中で、上坂冬子氏の著書、
「硫黄島いまだ玉砕せず」(1993年、文芸春秋)、
は私が最も感動した著書である。 この著者の
取材の徹底さが、読んでいて納得させられる。
歴史の歯車の巡り合わせで、硫黄島に生涯を捧げた
和智恒蔵が、硫黄島戦死者の慰霊や遺骨・遺品
の収集に如何に努力したかが、この本で分かるが、
それでもなお一万柱以上の遺骨が残されているのである。
(沖縄と硫黄島を含む在外戦死者約240万人のうち、
約114万人の遺骨がまだ戻っていない)
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