「人間の評価」に就いて(5):堀直虎

日本の独立を護った、忘れられた功労者の、松代藩主、真田信濃守幸貫の話を、「人間の評価」に就いて(1) に紹介した。
今回は、同じく、幕末の動乱期、大政奉還に際し、(例えば、近年のユーゴの様な)泥沼の内戦の発生の防止に貢献した、堀直虎の紹介をする。

堀直虎は、信州・北信濃の須坂藩主である。 藩主と云っても一万石の小藩であるが、この頃直虎は、幕府では若年寄兼外国総奉行の要職に就いていた。
鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が大阪から江戸に帰り付いたのが、慶応4年(1868)1月12日であった。
京都の新政権は、慶喜追討令を発した。

堀直虎は登城すると、将軍にも大勢の赴く所を説き、江戸城内で朝廷に従うよう意見を述べたが、騒然とした空気は静まらなかった。 数百の諸大名も、数万の旗本達も世襲制で凡庸な人物が多く、無見識であった。
幕閣には、薩長が徳川家を逆賊呼ばわりする事に、憤懣やるかたない思いの者も多く、大軍を挙げて西上を図る主張もあった。
主戦論者の榎本武揚や大鳥圭介のその後の行動を見るにつけても、当時の日本は本当に内戦の可能性のある、大変な危機に直面していたことが分かる。

論議の席に居て所信を尽くした直虎は、黙って座を離れると廊下に出た。 そして白装束に姿を改めると自刃した。

 この時、彼は未だ32歳であった。

直虎の諫死は、その場で直接には物を決めなかったが、無駄ではなかった。  諸大名に強い衝撃を与えた結果、その後の論議に的を絞らせた。
3月になると、首脳部は恭順論に向かった。

勝海舟は、直虎の死後は「諸官大いに沈着し浮躁の風止む」と書いているから、その流れを作ったのは直虎であったろう。

江戸城を無血開城して、大江戸を戦争の惨禍から救った人物として、勝海舟の名は知られているが、その海舟が直虎の死をこの様に評価しているのである。



その海舟と、北信濃{佐久間象山、惹いては真田幸貫}、との関係は、「人間の評価」に就いて(1) 、に紹介した。

真田幸貫と、堀直虎とは、共に
①山国である北信濃の小藩の領主であり、
②それにも拘らず幕閣の要職に付いていた。
③国難を乗り切るのに大変な貢献をしているのに、
④その後の歴史でその功績を忘れられた。
⑤佐久間象山が洋服姿で馬に乗り京都の街を往来して尊攘派から嫌われたのは良く知られているが、堀直虎も自藩に洋式兵制を取り入れ、藩兵の小銃訓練を強化し、自身はカメラを買い込んでいたハイカラであった。

海に面しない山国の信州が、これ等の先見性を持って、日本の国難を救った人材を生み出したのは面白い。
と同時に、僅か一世紀一寸前の事なのに、これ等の人達の名前が、(勝海舟以外は)、殆ど忘れられている事実も、教訓的である。


明治維新前後の空気が残り、須坂の地方の記憶が鮮明な中で書かれた、堀直虎の紹介資料「碧血碌」がある。
明治35年に信濃毎日新聞記者冨田松北が「正気」第19号の付録として書いたもの。
これは古いもので入手困難だがこれと、須坂中学校初代校長の岩崎長思が昭和10年に書いた「堀直虎公伝」の2冊を取り纏めて復刻した出版物が、平成元年に須高郷土史研究会で作られたものが資料として存在する。
なお、「碧血碌」の発行人が梅本倉冶であるのは留意する要がある。

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